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日本Delphi振興会

Delphiはじめて物語

Update 1998年2月14日

序章 道程

 私がはじめてプログラミング言語に出会ったのは、中学三年生の頃だった。その名もBASIC。この名前を聞いて嫌悪感を抱いたあなたは立派に日本Delphi振興会の会員資格がある。BASICといってもパソコンに入っていたわけではない。ポケコンを単純化したようなおもちゃのコンピュータに、最低限のBASIC言語を備えていたという代物である。このおもちゃコンピュータを技術の時間に作った。そして私は虜になった。まあ、Delphiをやるぐらいだから元々こっち方面に興味を抱いていたのであるが、おもちゃコンピュータに捧げる情熱は中学生時代のエネルギーをむやみに消費させていったのである。

 気づいてみたら、私は学年中で一番おもちゃコンピュータに詳しい男になっていた。同時にBASICにも。そしてその限界を知ってしまった。所詮おもちゃはおもちゃ。本物のパソコンに積んであるBASICとは比べものにならない。学年からブームが去っていくと同時に私の情熱も冷めていった。

 私のもう一つの趣味はオーディオである。オーディオとは、いかに良い音をスピーカーから鳴らすかということに情熱を注ぐ、常人では想像の付かない趣味である。高校時代はこのオーディオに情熱を注いだ。生の楽器の「音」を知るために吹奏楽部に所属するといった熱の入れようである。

 こうしてパソコンのことなど忘れたかに見えたが、ある日図書館でふとパソコンコーナーに寄ったことからくすぶっていた火種に火がついた。そこで手に取った本は「Mac」。かの有名なApple社のパソコンである。私はこんなパソコンが世の中にあるのか、と感動し、以後パソコン買うならMacintoshと決め込んだのである。

 高校を卒業し、無事大学生になった春休みを利用して、自分専用の机を作った。私はもともと工作が大好きなので、こういう作業は得意分野。考えてみればプログラミングもソフトというものを作ることだから、性分なのだろう。机の幅はスピーカーの幅+Macintoshの幅で計算された。将来Macを置くことを考えての計画である。

 と同時に、大学にパソコンの授業があることを知った。私は迷わずその授業に飛びつき暇を見ては自由に使えるパソコン教室に入り浸っていた。しかし、大学にあったパソコンはMacではなかった。それは国民機NECのPC-98だったのである。

 だが私は満足だった。パソコンに触れられさえすればそれで良かった。DOSやWindows3.1の勉強も苦にはならなかったし、国民的ワープロ一太郎にも巡り会えることができた。念願のN88-BASICにも情熱を注ぐことができたのである。それでいて雑誌はMac関係しか読まなかったのだから、おかしなものだ。しかしこのおかげで、WindowsとMacintoshの両方を平等に扱う目を養うことができた。

 そして時は流れて大学四年生。ついに就職活動を迎えることになった。「パソコンは就職に有利」。今や就職活動の常識となったこのフレーズに我が両親は心を揺すぶられた。予算は20万円。この範囲でならパソコンを買ってあげよう、ということになったのである。当然私は飛びついた。こういうのを願ったりかなったりと言うのだろう。

 早速秋葉原・池袋・新宿などを徘徊し、値段と機種選びに奔走した。しかし私の欲しかったMacintoshは20万円では買えなかった。中古ならあったかもしれないのだが、アップグレードの激しいこの業界では、中古など買ったらあっという間に過去の遺物になってしまう。私の高校からの夢はこうして破れ去った。結局、空前の人気となった富士通のDESKPOWER SEを23万円で購入したのである。と同時にオーディオ製品は押入れの中へ直行した。

 うきうき気分で早速N88-BASICをやろうとしたのだが、DESKPOWERはDOS/V機。DOS/VにN88-BASICはついていない事を知った私は、就職に使うどころかプログラミングソフトを求め、またもや秋葉原を徘徊することになるのであった。(続く)

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